日本語の奥ゆかしさとは何か?私にとったら、上品さよりも粋な心遣いです。
気障でなく、純情な付き合いをベースとしたさわやかさがあって、その奥に優しい思いやりがあふれている。それこそが奥ゆかしいのです。
- とっさの言い回し
- 臨機応変な言葉使い
- 相手の位置による言い替え
から、奥ゆかしさ、控えめさを生み出すことによって、円満な人間関係をつくります。
その反面、裏表の法則を勝手に知って誤解とずれ違いをしてしまう欠点もあります。
ところが、現代人は、はっきりしない人には八つ当たりしたり、事実はどうなのか?とウジウジと問い詰めてみたり、執着や恨みが募って呪うまでに根詰める人が多くなっているように感じます。
その背景には、宗教に変わって、宗教概念から外したスピチュアル精神論が出回って、浸透しているようで、宇宙法則と言うなんだか理解しにくいような混乱と勘違いが起こっているせいもあるだろう。
また、地方の特徴や人間性もあります。庶民と王族の身分違い習慣も含まれます。
このような関連性はさておき、
なぜ、遠回しの言葉や気遣いの言葉がなかなか伝わらないについて、考えてみたいと思います。
私は大阪生まれの大阪育ちなので、まずこの地方の考え方を述べていきます。
大阪は江戸時代から商売の町であり、北浜を中心に天下の台所として、知られていました。
それ故にお客さんとの会話に、商品を買ってもらうため、店をひいきにしてもらうため、駆け引きのような柔らかいウィットに富んだ言葉が生まれてきました。
「儲かりまっか?」
「まあまあぼちぼちでんなあ。」
これは商売人のあいさつ言葉です。
どれだけ儲かったの?で、本気で聞いているのではなく、どうですか?元気かい?と言うような商売の雰囲気や店主の物腰の柔らかさなどを感じ取りながら、いつの間にか良い商品を見せてもらったり、話が弾み、付き合いの仕事が楽しくなっていくように商売が繁栄していくので、この店は上品やな。とか、いい感じの店主さんとか良い印象と関係を持たれていきます。
どのぐらい儲かったかは知らないけど、いいお店だからまた行こうってなってくるようなユーモラスな円満さがあるようです。
「どうですかね?一つ持っていかはれますかね?」
「いや、考えときますわ。ほな、また、いいもの見せてな。」
考えときますわは、買わないの意味だそうです。こんな駆け引きの言葉を知らない人は、「また、買いにくるのだな」と期待を持ってしまうのです。それでなかなか買わないようだったら、「あれから、どうなりましたか?買う気になりました?」と聞いてしまうことが良くあるようです。
「お茶お替りしますか?」
長居する人を追い出す言い回しで、
「いや、何べんもすみません。そろぞろ帰りますんで」と遠慮してそそくさと帰ることから、長居する人を何気なく追い出す風に認識されてきたようです。
現代では、喫茶店などでも長時間そこに座っているお客さんにも、お水を持って挨拶するようになっていますが、上記のような気遣いとは関係ないようです。
「こんにちは。どちらへいかはるのですか?」
「いやいや、ちょっとそこまでね。」
「そうですか?ほな、気を付けて」
店や家の前を通りかかった知人に、この言葉の売りを知らない人は、「ちょっとそこまで」となると、近くだと思う方もいるだろうけど、外国など遠いところはお金があって...の僻みなど面倒なことが起きたくないときの気遣いもあるのです。
こんな風に人々にもこんな心理作用的な常識が伝わって受け継がれてきましたが、今では逆に疑ったり疑われたりするように変わっていきます。
裏ではほんとはこうだろう。私、そんなに邪魔かな?迷惑かな?などなど。
なんでそんな風に面倒くさい人、ネガティブな人になってしまうのだろうか?
昔の人の粋な気遣いの良さが今では伝わりにくくなって来ています。
現代の学校教育はいじめ問題の影響なのか?私の子供たちの学校教育を見ても、私の時代とは違った流れを感じています。
それにプラスして、現代に広がっていくスピチュアル論に照らし合わせて、これを「執着」として手放すことの必要性と関連してしまい、後始末が面倒になってきます。
本当の粋な気遣いは、どこから出てくるのか?それは思いやりとやさしさからできてくるもので、自然な形でなっています。
昔の洋画を見てもわかるように、ロマンスな言葉の駆け引きの楽しみが現代では、「そんなの言えるか!」みたいに理解できなくなっています。
どうしてこんな風に変わったのだろうか? 私個人の考えとして、
そこには時代の背景はもちろん、アメリカに自由の国が生まれた瞬間に、創作や創造の楽しみが生まれたことにも要因していると思われます。
ニューオーリンスはジャズの発祥地であり、そこから音楽を通して、黒人レクイエムが生まれ、ジャズにこめて表現をしていきました。深く悲しい表情の哀愁音をサックスやトランペットに忍ばせて、人々の胸に夢やあこがれを引き寄せていました。
1900年から1920年はアフリカ人系とフランス人の混血人によって、ジャズ繁盛期を誇っていた時期です。フランス人と言えば、シャンソンが有名です。
シャンソンのいろんな形の自由自在の面白みが、黒人差別の悲しみが黒人特有の優しさと融合したレクイエムを取り入れた情緒豊かな音感を創造したのであろう。
こんなに自由と言うものは、あこがれがたくさん秘めているものだと。
ここからでしょうか?
チャップリンと言う喜劇王が生まれ、次々と音楽や映画を製作する楽しみのロマンが、ユーモラスで美しい会話を生んできたことから、大阪人の独特な会話も同じではないか?と思えるようになりました。
顧客を増やして、ご愛顧のお礼をしていくことで、楽しい商売が生まれていく原点を生み出していく。そうして、会話言葉も自然と身についていく。
こんな場数を踏んでいきながら、人間と言うものは創作の神様だと言えるでしょう。
ところが、現代では、研修教育のおかげで、言葉の裏には何かある?を考えていくうちに執着みたいな習慣ができてしまうようですが、去る者は追わずでまたこの次頑張ろうと次のステップに進めないようです。
また、身についた営業による経験や常識はたとえ、その役を退位しても退職してもずっと脳に染みついているようで、私生活でも友人関係においても、「もしかして✖✖✖✖でしょうか?」と気をもむ取り越し苦労を買って出るようになってきます。
これは、当たり前や常識だと思い込むことによるものであり、臨機応変にできない人は繰り返してしまう習性となってしまいます。
なぜなら、人間の心はコロコロ変わっていきますし、さっきの言動も忘れて、言ったことない!言ってない!と気づかずに責任転嫁したり、またその時の個人個人の気持ちも一概に違ってきます。そして、自分が思うことは他人も同じでないことも多いです。
なので、現代のスピチュアル論や常識にこだわらず、あっそう?で終わってしまった方が、断然いい。
次のステップへすばやく進化していくために、縁がなかったと忘れていくことも必要ながら、諦めて次の対策を考えるなり、新しい未来を展開いくことの方が楽しいのではないですか?
これこそが粋な計らいであり、一休さんみたいに、「この橋を渡るべからず」で気にしないで渡ろうの楽天的な気持ちで、常識にはめずにあっさり生き、次々と会話を生みだしながらあっさり生きようではありませんか?
朱羽乃宮
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